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WEDGE Infinity 日本をもっと、考える 2015年04月24日(Fri)
平野 聡 (東京大学大学院法学政治学研究科教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4920
尖閣は前近代中国にとって
「航路標識」にすぎない
尖閣関連史料から見る中国の矛盾(前篇)
日中関係における摩擦、あるいは賃金上昇や契約トラブルなど中国ビジネスにおける様々な問題点ゆえに、昨年は日本企業の対中投資が大幅に減って東南アジア・南アジアシフトが進んだと伝えられるなど、「日本の中国離れ」がしばしばいわれている。
しかし、日本側の都合だけでそれが順調に進むというわけではなく、むしろ中国側が彼らの利益に基づいて日本という存在にますます注目しているために、結果的に日中関係は今後も複雑なからみ合いが続くというのが実情であろうか。
このような情勢の最も明確なあらわれが、所謂「爆買い」と呼ばれる現象に象徴される中国人観光客の日本旅行激増であり、昨今メディアを賑わせるアジアインフラ投資銀行(亜投行)への参加問題であろう。
去る22日、アジア・アフリカ会議60周年に合わせ、インドネシアで安倍晋三首相と習近平国家主席が会談したのも、このような動きの一環であると考えられる。
いっぽう、中国は表向きのソフト路線とは別に、戦後70周年にあたり依然として「反ファシズム戦争勝利」を強調し、日本を牽制し続けている。
中国は、日本がミズーリ号で降伏文書に調印した9月2日に合わせて(実施日は3日の予定とか)軍事パレードを開催するといわれる。
これは、
「中国人民が苦難の歴史と偉大な勝利を再確認し未来に向かう」
ことで中国共産党・ナショナリズムの求心力を高めるためのものであり、日本には歴史を正視するようアピールする一方、日本を敵視するわけではなく共に未来を切り開くためであるという。
しかし、中国側が「反ファシズム戦争」を語るとき、その裏には必ず尖閣問題があることも否めない。
中国は、日本の無条件降伏によって台湾が中国に返還された以上、
★.「台湾の一部分である釣魚島」も無条件で即座に返還されるべきであり、
それに未だに従わない日本は、反ファシズム戦争たる第二次大戦の結果を認めないという点で、世界秩序に従わない存在であると主張してきた。
そして、尖閣問題がニュースの論点として浮上するたびに、「釣魚島=台湾」という図式が示されてきた。
■ある地図をめぐり、日本の発表に反論
去る3月16日、日本の外務省が公式HP上の「尖閣諸島について」PDFファイルを更新し、1969年に中華人民共和国国家測絵総局が発行した「中華人民共和国分省地図」のうち「福建省 台湾省」を掲載し、1970年前後までの中国が依然として「尖閣」名称を用いていたことを示した。
これに対する中国側の主張もまた、「釣魚島=台湾」論の繰り返しであった。
まず翌3月17日、中国外交部スポークスマン・洪磊氏は定例記者会見(全文が中国外交部公式HPにあり)にて、次のように語った。
「釣魚島とその附属島嶼が中国の固有の領土であることは否定出来ない事実であり、十分な歴史と法理の証拠がある。
この歴史的事実は一部の人が無駄に心労を費やして一二枚の地図を探し出したところで翻すことが出来るものではない。
もし必要であれば百枚でも千枚でも、釣魚島が明らかに中国に属する地図を探し出してみせよう」
筆者が思うに、もし中国が探し出せるのであれば、探し出して頂ければ良い。
しかし、なかなか見つけることは出来ないのであろうか、翌日には「釣魚島は台湾の一部分であるため、日本は台湾の一部分である釣魚島を返すべきである」という主張を繰り返した。
しかも、地図には如何に「尖閣」と記してあろうとも、規定のスペースを超えて載せたこと自体が「主権」のあらわれなのだとして、次のように言う。
「福建省・台湾省が管轄する地区を完全に示すため、この地図はとくに福建省北部・台湾省南部と釣魚島及びその近海については、通常の図幅を超えて『はみ出し』形式で描き込んだ。
これこそ十分有効に、釣魚島が中国の一部分であることを証明している」
さらに4月8日、同じく中国外交部スポークスマンである華春瑩氏は、日本が既に集めた膨大な史料をデータベース化して公表する方針であることに触れ、上記洪氏の発言を「補強」するかたちでこう語った。
「明清の多くの地図で明確に釣魚島と記されているし、日清戦争前の西洋の地図でも広く釣魚島という名称が用いられて来た。
日本がどれほど苦心して幾許かの資料を探し出し、断片的な決めつけを行って歴史を引き裂こうとしても、釣魚島が中国に属するという事実は変えられない。
最近、日本は1969年の中国の地図を取り上げて大いに文章をなしたが、逆に釣魚島が中国の一部分であることが力強く証明された。
日本は、資料を公表するときには注意深く慎重にするよう、目を覚まして頂きたい。
小手先の拙いことをするべきではない」
そこで確かに1969年の地図をよく見ると、確かに中国側のいう通り、地図の通常の図幅を敢えてオーバーするかたちで、尖閣が福建からはるか沖合の島として示されている。
しかし、
「明清の頃から釣魚島に主権を行使」し、
「西洋も広く釣魚島という地名を知り」
「台湾の一部分」
であるのならば、何故最初からこの地図に「釣魚島」と記さないのか。
国家測絵総局はどう見ても国家測絵総局であり、あくまで中国という国家の意志として「尖閣」と表記したのであろう。
★.近代国際法の論理からいえばこれを以て、
日本側の「尖閣」が継続的に中国側にも認められていたと判断する。
中国も日本も近代国際法にしたがって主権国家を営んでいる以上、中国もあくまで近代国際法の論理に従うべきであろう。
★「海防範囲」「台湾の一部分」として位置づけていたのか疑問
では実際のところ、中国側が掲げる「国際法理に基づく根拠」とは何か。
野田佳彦政権による尖閣国有化の直後に中国が発した『釣魚島白書』によると、日清戦争で日本が台湾を領有する前の状況(すなわち、「台湾の一部分として釣魚島を利用・管理してきた状況」)は大略以下の通りだという。
(ちなみに、台湾=中華民国外交部も概ね似た説明をする。興味をお持ちの方は公式HPからYou Tubeの日本語映像を閲覧出来る)
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* 明清の地図や文献には「釣魚島」と記されたものが多数あるため、中国側こそいち早く「釣魚島」を発見し利用してきた。
* 明清が琉球を朝貢国として封じるために送った冊封使節の記録には、境界線として久米島の西に「黒水溝」(琉球トラフ)があり、その東の「黒水」と西の「滄水」は異なる海域として認識されていた。
黒水溝こそ中国の境界であり、その内側にある釣魚島は中国の一部分である。
* 明清の頃から地図への記載を通じて、釣魚島は中国の海防範囲であった。
* とくに、釣魚島は台湾の一部分であった。
日本渡航経験がある鄭舜功『日本一鑑』(1556)では、釣魚嶼を「小東」(台湾)の一部としている。
林子平の『三国通覧図説』でも、釣魚島は琉球側ではなく中国側と同じ色に塗られている。
*西洋の地図には「釣魚嶼」という記述がある
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これらの主張がその通りであるのか、歴史的文脈に即したものであるのかどうかについては、以下の研究が詳しい。
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* 原田禹雄氏による、明・清から琉球への冊封使節記録の膨大な全訳と分析(そのハンディな成果として『尖閣諸島----冊封琉球使録を読む』榕樹書林、2006年がある)。
* 石井望氏による、漢文のみならず近現代の様々な資料を収集したうえでの詳細な考証(例えば、いしゐ のぞむ『尖閣反駁マニュアル百題』集広舎、2014年)。
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とりあえず、原田・石井両氏の論考、ならびに中国側が挙げる史料のいくつかに目を通してみると、当時の史料が尖閣について語る内容と、それゆえの中国側主張の問題点として、以下の点を挙げうる。
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* 確かに「釣魚嶼」という地名は漢文史料に出て来る。
明清の海防書では、はるか沖の小島として記載される。福州と那覇の間の羅針盤操作指南でも、地図とともに記載されている。
* しかし、それはあくまで「知っている」という範囲を超えない。
明清の側は東シナ海の荒波を越える遠洋航海技術に乏しいため、琉球側が派遣した熟練の船員に頼らなければ航海はままならなかった。
したがって、たとえ記録があるとしても、島を利用し活用していたのは琉球人ということになる。
* 海の色が故郷と結びつく発想は古今どこにでもある。
しかし、流動的な潮目を以て国境線とするという認識は安定的なものなのか。
史料の中には、そもそも「黒水溝」など存在しないと断言する記録(たとえば清代・李鼎元の冊封使録)もある。
羅針盤指南を兼ねた地図は、単に航海中現れる島を並べたのみで、明確な国境線は引かれていない。
* そもそも明代において、「釣魚嶼」と同列に表記されている「鶏籠嶼」すなわち台湾は、明の支配下ではない。
* 鄭舜功『日本一鑑』の「釣魚嶼=小東」認識は後に引き継がれていない。
* 清代に入りしばらくすると、台湾西部は次第に清の支配下となる。
しかし1870年代まで、台湾の北限は鶏籠=基隆の周辺であると公式な地誌に明記され、今日の宜蘭周辺から南の東部(花蓮・台東県)も、支配が及ばない「生蕃」の地であった(だからこそ1874年に日本は台湾出兵し、その費用が清から支払われた)。
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このような史料状況のもと、結局のところ焦点は、果たして明清が本当に「釣魚嶼」を「海防範囲」「台湾の一部分」として位置づけ活用していたのか、ということになる。
■「航路標識の島」という認識
しかし中国の主張は、この点において余り周到ではないように思える。
中国が「有力な釣魚島主権の根拠」としてとりあげる明代の兵法書『武備志』(茅元儀、1621年)を繙いてみると、「釣魚嶼」という固有名詞にとどまらない論旨の全体から、当時の版図・領域認識、ならびに海防の方法論が浮かび上がってくる。
本書の「海防一」では「陳銭(上海のすぐ南にある浙江の小島嶼)こそ中国の海山の画処」すなわちボーダーラインであり、ここから外側は倭寇が猖獗する世界であるので、明の戦略的最前線である陳銭を断固として防衛せよと説く。
これに対して、はるか沖合での防衛は、突如浅瀬に乗り上げて将兵の命を犠牲にするリスクが大きいのみならず、倭寇(日本人中心の武装交易集団)が常に出没するとも限らず労が大きすぎるため、倭寇は大陸沿岸の海で討ち、上陸させないのが上策であると説く。
このような認識に即して言えば、海防範囲とは基本的に大陸の沿岸、ならびに目と鼻の先にある小島に限られる。
そこから先の、例えば尖閣のような遠方の島嶼は、倭寇などが巣喰い、浅瀬もあるため危険で、防衛の効果も上がらないため、ノータッチで済ませることが望ましい世界ということになる。
すると、以下の要因が全てきれいに結びつく。
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* 海防図に示された要塞や哨所が沿岸に集中し、沖合の島には全くないこと。
* 沖合の「釣魚嶼」や「鶏籠嶼」が漠然とした表現・位置関係にとどまること。
* そもそも台湾=「鶏籠嶼」に明の権力が及んでいないこと。
* 冊封使節側は航海技術に乏しく、琉球人や倭寇こそが東シナ海という海域を自由自在に乗り越えて有効に利用する主人公であったこと。
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したがって尖閣は、福州から那覇に向かう途上で、羅針盤操作と照らし合わせる都合上活用された航路標識の島であったというのが正確なところであろう。
人が住まない航路標識であった以上、琉球人は久米島が見えてはじめて「自分の家に帰って来た」と思ったのであろう。
そして明の地理認識でも、彼らの版図は浙江・福建のすぐ沿岸の島から先へは広がらなかった(もし明確に広がっていたのであれば、早くから『一統志』の類に記載すべきであった)。
前近代の尖閣は、あくまで無主の地であり、境界線もなきグレーゾーンであった。
(後篇へ続く)
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