2015年3月7日土曜日

中国共産党の権力抗争(6):習近平「一人体制」確立、強権統治で崩れる集団指導体制

_



jiji.com 。(北京時事)(2015/03/05-19:57)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201503/2015030500694&g=cyr

習近平「1人体制」確立
=強権統治で権威-崩れる集団指導・中国

 「習近平同志を総書記とする党中央の力強い指導の下、
 全国各民族・人民は心を一つにした」。
 北京の人民大会堂で5日開幕した中国全国人民代表大会(全人代=国会)。
 李克強首相は政府活動報告の冒頭、習国家主席の政治指導を持ち上げた。
 昨年の活動報告との違いは、「指導の下」の前に「力強い」という言葉が加わった点だ。

 政府活動報告では従来、朱鎔基氏、温家宝氏ら首相が「主役」だった。
 しかし、習体制の下では、後方に座った共産党総書記の習近平氏が内外に発する政治メッセージを李首相が「代読」しているという錯覚に陥る。
 共産党筋は「習近平一人体制が強まっている」と解説する。

 ◇注目は「後方」に
 
 約1時間40分に上る報告の中で、李首相は「改革」を80回も連呼した。
 「一部の腐敗問題が目に余るほど深刻で、
 指導的地位にありながら職責を果たさない消極的な者や怠惰な者がいる。
 われわれは問題を直視し、
 『安けれども危うきを忘れず、治まれども乱を忘れず』(安泰時でも危険や混乱に対する注意を怠らず)だ」。
 李氏はこう力を込めたが、会場からの拍手は大きくない。

 会場の期待と報道陣の注目は李氏よりも、周永康前党中央政法委員会書記ら「大虎」を摘発した反腐敗闘争で権力基盤をほぼ固め、強権政治で権威を高める習氏に注がれている。
 中国政府筋によると、習氏は党・政府内部の会議で、李氏を叱責することもあるという。
 北京のある大学教授は
 「(最高指導部の)政治局常務委員会で仕事をしているのは、
 習氏と(党中央規律検査委書記の)王岐山氏の2人しかいない」
とやゆする。
 「集権体制の象徴だ」と党内関係者が指摘したのは、1月中旬に開かれた異例の政治局常務委会議だった。
 通常は公表されない最重要会議を主宰した習氏は、国務院(中央政府)、全人代、最高人民法院(最高裁)などの党組織「党組」から報告を聞き、
 「党中央による集中かつ統一した指導の堅持は、根本的な政治ルールだ」
と訴えた。
 習氏の狙いは、
 総書記の下に全機関の権力を集中させることで、
江沢民・胡錦濤時代の「集団指導体制」は崩れた形だ。

 ◇:毛沢東も駆使した宣伝戦

  世論を「追い風」にしようとする習氏は、内外メディアに公開される全人代で、政治的な攻勢を掛けようとしている。
 開幕3日前の2日、軍は制服組トップだった郭伯雄前中央軍事委員会副主席の息子、郭正鋼浙江省軍区副政治委員の摘発を公表した。
 「次の大虎は郭伯雄氏だ」(共産党筋)との見方が強まる中、習氏と同じ「紅二代」(革命指導者の子息)で、習氏の盟友である劉源・軍総後勤部政治委員が5日、記者団に語った言葉が注目を集めた。
 中国系香港紙・文匯報によると、軍内の反腐敗で存在感を示す劉氏は
 「郭正鋼の問題は、郭伯雄に波及するか」
と聞かれ、笑顔で
 「あなたは分かりますよね」
と明言を避けた。
 「分かりますよね」というのは、昨年の全国政治協商会議(政協)の記者会見で、周永康氏の調査について質問された呂新華報道官が述べた文句。
 その約5カ月後、周氏の調査が公表された。

 「習近平政治」の力の源泉は、毛沢東も駆使した宣伝戦にある。
 習主席は1月、政法(公安・司法)機関幹部に対し、毛が1926年に使った「刀把子(刀のつか)」という威嚇的な単語を使い、「刀のつかをしっかり握るべきだ」と強調した。
 中国政府は全人代前の2日夜、「抗日戦勝70年で閲兵式(軍事パレード)を実施する」と発表したが、軍・公安を掌握した習主席の政治権力は、9月の閲兵式と訪米に向けてますます強化されるのは確実だ。



2015年03月11日16時07分 [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]
http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=197605&servcode=100&sectcode=120

【コラム】「習近平思想」が誕生するのか

  最近、中国を眺める人々の関心を引く出来事があった。
 先月末から人民日報など中国メディアが特筆大書している習近平の「四個全面」がそれだ。
 四個全面とは
 「全面的な小康社会建設」
 「全面的な改革深化」
 「全面的な依法治国」
 「全面的な党建設」
をいう。
 習近平が昨年12月の江蘇省視察当時に初めて提起した後、今年に入って繰り返し強調している言葉だ。
 人民日報はこれを中華民族の復興を導くための戦略的布石だと規定した。こ
 れに関し、ついに習近平時代の中国の進む方向を提示した「習近平思想」が誕生するのではという解釈が出ている。

  中国共産党は理論型政党であることを自負する。
 毎時期、自分たちが進むべき方向を理論で確立する。
 1921年の創党以来、中国共産党を支配したのはマルクス-レーニン主義だった。
 しかし35年の遵義会議以降、毛沢東指導体制が確立され、「毛沢東思想」が登場した。
 毛沢東思想の核心は、マルクス-レーニン主義を中国の現実に合うよう発展させたものだ。
 労働者でなく農民を革命の主体とした
のがそのような例だ。

  トウ小平時代の指導思想は「トウ小平理論」と呼ばれる。
 トウ小平の中国に対する最大の貢献は実践にある。
 白猫であれ黒猫であれネズミを捕るのが良い猫という「黒猫白猫論」のように、トウ小平は現実的な指導者だった。
 経済建設を一つの中心とし、これを後押しするための二つの基本点に
 改革・開放
 共産党領導
を挙げたのがトウ小平理論の核心だ。

  第3世代指導者の江沢民は「学習を重んじ、政治を重んじ、正しい気風を重んじる」の「三講精神」を出したが、反応がよくないため後に「三個代表重要思想」を提起した。
 これは中国共産党が先進生産力、先進文化、広大人民の根本利益など3つを代表するというものだ。
 核心は、共産党がかつて打倒の対象とした資本家の利益まで代表すると宣言したところにある。
 中国共産党はこのようにして労働者・農民の党から中国全体国民の党に変身した。

  胡錦濤時代には「科学的発展観」が出てきた。
 トウ小平、江沢民時代の高速成長の影を治癒するための性格が大きかった。
 人本主義を強調し、調和社会を話し、持続可能な成長を叫んだ。
 トウ小平理論がトウ小平の死後の97年秋に党章に入ったのに対し、江沢民の三個代表重要思想と胡錦濤の科学的発展観は当事者の権力が生きていた2002年と2007年にそれぞれ党章に入った。
 その後、中国共産党はいつもマルクス-レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論、三個代表重要思想、科学発展観を行動の指針とすると話す。
 目を引くのは、毛沢東とトウ小平の名前は彼らが前面に出した主義の前に入ったが、江沢民と胡錦濤の名前は表れないという点だ。
 それぞれの主義が出す影響力が違うという点を思わせる。

 今回、習近平が前面に出した四個全面は非常に精巧に企画されたという評価だ。
 最初の全面的な小康社会建設は2012年第18次党大会で、2つ目の全面的な改革深化は2013年秋の党大会で、3つ目の全面的な依法治国は2014年秋の党大会で、そして4つ目の全面的な党建設は昨年10月の党の群衆路線教育実践活動決算時に習近平が提起したものだ。
 過去2年間にわたる治国の方略を有機的に結合したという評価を受ける。

  この四個全面を逆に解釈していけば、習近平時代が進む道を予想できる。
 まず中国共産党自身から新しく精神武装をした後、法治で不正腐敗を根絶して社会を安定させ、中断のない改革で中国共産党創党100周年の2021年までには中国国民全員が文化生活も楽しむことができる小康社会に入るということだ。
 習近平が執権後に初めて叫んだ「中国の夢」がやや理想に偏った印象を与えるのに対し、
 四個全面は理論としての論理を備え「習近平思想」に発展するという分析を呼んでいる。

  中国領導人が自分の時代を代表する思想を前に出すのは、よく王冠に真珠をつける行為と見なされる。
 特にその思想が直ちに挿入されれば、先代の指導者と肩を並べる隊列に入ったことを確認する契機となる。
 習近平も、そのような野望がないはずはない。
 彼は江沢民や胡錦濤を跳び越えて「毛-トウ-習」の派閥を作ることを望んでいるのかもしれない。
 重要なのは、そのような野心がおかしく感じられないほど習近平の中国が固く見えるという点だ。
 強力な腐敗清算を基礎に、周囲の視線にかかわらず中速成長の経済基調を新しい新常態としている。

  これに対し習近平政権と出発を一緒にした韓国の立場はあまりにも哀れに見える。
 セウォル号惨事の悲しみと側近権力の失望しか、これといった記憶がない。
 一部は家計負債によるもう一つの経済危機を警告したりもする。
 習近平の中国号が長江から出て太平洋に進入しているのに対し、朴槿恵(パク・クネ)の韓国号はまだ漢江(ハンガン)も抜け出せない感じだ。
 季節は春だが、心が真冬であるのには理由があるようだ。



サーチナニュース 2015-03-06 00:23
http://news.searchina.net/id/1564136?page=1

文革中の行為はISと同じだ! 
日本鬼子よりひどい
・・・毛沢東非難の書き込みも=中国版ツイッター


●(写真は晩貝征さんが5日に投稿した書き込みの画面キャプチャ)

 中国版ツイッターの微博(ウェイボー)で晩貝征さん(アカウント名)は5日、
 文化大革命中の文化財破壊の記録写真を紹介
した。

 するとユーザーから
 「“イスラム国”のいつものやり方と同じだ」、
 「日本鬼子もこんなことはしなかった」
などの書き込みが寄せられた。
 投稿数がそう多いわけではないが、5日午後5時45分時点で、
 「日本の方が悪い」
との反論は寄せられていない。

  晩貝征さんは文化大革命中の文化財破壊として
 「孔子廟を破壊」、
 「地主階級であるとして諸葛亮の遺跡を破壊」
などを列記した文章も合わせて投稿した。

  中国メディアも2月末、IS(イスラム国)がイラク国内で文化財を破壊したことが報じられた。
 中国では
 「文化大革命中に、中国でも文化財が破壊された」
などの声が上がった。
  文革中の文化財破壊の写真からは逆にISの行為を想起したユーザーがいて、
 「イスラム国のいつものやり方と同じだ」
とのコメントを寄せた。

  中国で伝えられる、日本軍の行為と比較した人もいる。
 「日本鬼子は中国の文化と歴史には、“畏敬の心”を持っていた」、
 「(文化大革命中の)すべての目的は毛(毛沢東)だけを崇拝するためだった」、
 「日本鬼子は都市を屠(ほふ)り、南京では30万人を殺した。
 毛共(毛沢東の共産党)は“3年の災害”を作りだし、3755万人を餓死させた。
 とちらが凶悪なのだ?」
などの書き込みがある。

 「日本鬼子」は旧日本将兵を指す。
 毛沢東は中国では「毛主席」と呼ばれることが一般的だが、批判する人は「毛」と呼び捨てにすることがある。
  「3年の災害」とは1958-60年の大躍進政策で経済が大混乱し、食料生産が激減して大量の餓死者を出したことを指す。
 餓死者の数は不明だが、5000万人とする説もある。
   寄せられた書き込みは、
 旧日本軍の行為を非難した上で、毛沢東時代にはそれ以上にひどいことが行われたとの見方で一致
している。



サーチナニュース 3月9日(月)12時19分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150309-00000134-scn-cn

「日本人より残虐だ」! 
日本に歴史の「正視求める」一方で、「あの時代」の自分たちの罪は隠す
・・・矛盾に苛まれる中国ネット民=中国版ツイッター

 中国版ツイッター・微博(ウェイボー)で約8000人のフォロワーを持つ、海外在住というネットユーザーが6日、中国で1960年代末に起きた文化大革命にかんするツイートを掲載したところ、多くのユーザーの注目を集めた。

 このユーザーは
 「文革時期に北京市大興県で大虐殺が行われた。
 中国人がどうやって中国人を殺したか見て欲しい。
 日本人より残虐だ」
 
というツイートとともに、当時の「大虐殺」の様子として1枚の写真を掲載した。画像の信ぴょう性については不明である。

 ツイートはこれまでに約1400件転載されており、その注目ぶりが伺える。
 また、多くのユーザーがコメントを残していった。
 以下がその一部だ。

 「非常に恐ろしい」
 「少なくとも日本人より5倍はひどい」
 「日本に侵略された時には家族が命を失うことはなかったが、文革では命を落とした!」
 「善が抑圧され悪がはびこった時代! 
  なんで懐かしむ人が多いのか分からない」

 「文革を清算しなければ、事実は永遠に清算されることはない。
 恥ずかしいことに、北京の資料館では文革の資料がまったく見つからないのだ」

 「日本に歴史の正視を求めつつ、自分たちの罪は隠す。
 歴史教科書の文革に関する記載は減る一方で、いつか『なかったこと』になるんじゃないだろうか。
 文化、精神、影響が及ぶ範囲と言う点で、文革は戦争より恐ろしい」
 「文革博物館を作って歴史を正視せよ!」

 あるユーザーは「文革は全面的に否定できないし、肯定もできない。なぜなら、誰の言うことが客観的な事実か分からないからだ」と論じている。
 まさにそのとおりであり、文化大革命に限った話ではなく、さまざまな事象に対して当てはまることだ。
 ただ、客観的な事実を追い求める姿勢は忘れてはならない。
 それが、時代が変わったとはいえ当事者であることに変わりはない中国共産党にできるのか。

 「人類に平和と尊厳を伝えるために、インターネットという道具は誕生したのだ」
というユーザーのコメントが印象的。
 「日本人と比べてどちらが残虐だ」などという議論は不毛であり幼稚だし、ツイート主が掲載した画像だけでは本当に文革時期のものなのか判断できない。
 しかし、「あの時代に何があったのか」を知りたいという中国の若者たちの欲求が潜在的にせよ顕在的にせよ高まりを見せつつあるように思える。



 ダイヤモンド・オンライン  2015年3月10日 吉田陽介[日中関係研究所研究員]
http://diamond.jp/articles/-/68068

香港大富豪をケイマンに脱出させた習近平改革の威力

北京では今月5日から全国人民代表大会(全人代)が開催されている。
3年目を迎え政権基盤を強固としたい習近平政権は、安定成長維持と、腐敗摘発運動をさらに推進していくとみられる。
その改革路線の影響からか、香港の大富豪・李嘉誠氏が今年に入り、事業の登記地を香港からケイマン諸島に移したことが話題となった。
果たして、李氏に「撤退」を決断させたのは何か?
習政権の改革路線が李氏の事業に影響を与えたのか

 2015年が明けて間もない1月9日、香港の大富豪李嘉誠氏は長江実業と和記黄埔の再編を行い、会社登記地である香港を離れ、登記地をケイマン諸島に移した。

  「李超人」の異名を持つ86歳の大富豪は、なぜこのようなこのようなことを行ったのだろうか。

 中国メディアによると、李嘉誠氏は
 「非凡な経営頭脳をもち、業界の変化を見極めることができ、判断を間違えたことがない」、
という。
 ならば、「撤退」を決断した背景には、深い理由があるはずだ。
 もちろん、李氏がその理由を自らの口から直接語ることはないし、進行中の行動への影響を避けるために恐らく真実を覆い隠すだろう。

 中国メディアは、李氏の「撤退」について、主に「ビジネス上の理由」としている。
 確かにそれは一要因ではあるが、政治的要素、つまり習近平政権の政策という要因も見逃せない。

■李嘉誠氏が撤退を決断した真の理由とは

 李氏は李ファミリーのもとにある長江実業、和記黄埔の二大グループを和記実業有限公司(以下「長和」と略)と長江実業地産(不動産)有限公司(以下「長地」と略)に再編成しようとしていた。
 不動産、ホテル、インフラ建設、エネルギー、小売といった先行きがあまりよくない業種を「長地」に移し、
 港湾関係、電信、Eコマース、メディアや生命科学技術など、他の事業を「長和」に編入した。
 中国メディアは、この再編を「世紀の大再編」と呼んでおり、その理由は不動産市場の先行きにあると分析している

 李ファミリーは不動産でかなりの利益を得ていたが、ここ2年で状況が変わり、先行きが不透明になった。
 中央財経大学の郭田勇教授は『人民網』に対し
 「昨年から現在まで、中国の不動産業は調整の周期に入っている」
と語っている。

 李嘉誠氏は以前から中国大陸部と香港の不動産市場の先行きを楽観視しておらず、2013年以降、中国本土にある自らの不動産を売り続けてきた。
 李氏の不動産市場からの撤退は、不動産業を含む多くの人に批判されたが、現在の状況をみると、李氏の考えは正しかったといえる。

 事業の「再編」はリスク分散のために行ったのは明白だが、ケイマンへの「移動」(香港人は会社の登記地を移すことを「移動」と呼んでいる)については、人々の憶測を呼んだ。

 中国メディアは、李氏が中国経済の先行きについて楽観的ではなかったと分析している。
 現在、中国経済は7%成長を続けているが、かつてのような二ケタ成長は難しくなり、安定成長段階に入った。
 不動産市場のほかにも、地方政府債務や過剰投資など様々な問題を抱えている、そのため、李氏は自社の資産価値が下落する前に撤退を決意したと中国メディアは見ている。

 李氏は2013年11月に『南方週末』の取材に対し、
 「私は絶対に『移動』することはないから、長和と長地も永遠に香港を離れることはない」
と断言していたが、撤退を行った最近では、「ビジネスの必要上」登記を移したのであり、
 「香港に自信がなくなったわけでない、現に傘下の企業は香港に上場・登記している」
と説明している。

李嘉誠氏は危機意識が強く、一日の90%以上は、先のことを考えているといわれている。
 恐らく、
★.香港はビジネス環境や政治的な環境面で、彼にとってすでにますます不利な土地になっている
ことを、早くから見抜いていたのかも知れない。

彼の危機意識を煽ったものとは何であろうか。
 それは、習近平政権の登場であったと考えられる。

■習政権は保守回帰ではなく鄧小平を讃える改革開放派

 李氏の取り巻く環境を変えた一因とみられる習近平政権をどう評価すべきだろうか。
 政治面では大衆路線運動のような、毛沢東時代を彷彿とさせる政治運動を行っている。
 一方で、経済面では改革を主張しているため、よく「政治は『左』、経済は『右』」といわれる。
 また、反腐敗運動で毛沢東時代のような政治手法を使っていることから、保守回帰とも言われる。

 筆者のみるところ、習近平氏は「改革派」である。
 習氏は総書記に就任間もない2012年12月に改革開放政策の発祥地である広東省を視察し、そのときの講話で「改革の総設計者」といわれる鄧小平がいなければ現在の中国はないと語った。
 さらに、
 「改革開放は、現代中国が発展・進歩するための源であり、
 わが党と人民が大きな足取りで時代の前進の歩みに追いつくための重要な切り札であり、
 中国の特色ある社会主義を堅持し発展させる上でどうしても通らなければならない道である」
と、改革開放路線をさらに深めることを表明した。

 経済面についていえば、
 習近平氏は李克強国務院総理の「市場経済の役割を十分に発揮させる」考え方をもとにした経済運営を考えており、
 特に独自色を出しておらず、両者の住み分けができている
といえよう。

 同年11月に開かれた中国共産党第18期中央委員会第三回全体会議(三中全会)で政治、経済面だけにとどまらない全面的改革のロードマップが示された。
 これは習近平政権の改革への本気度を示すものであった。

 三中全会で採択された決定では、「資源配分における市場が決定的役割を果たす」ことを強調した。
 具体的には、
 「企業が自主的に経営し、公平に競争し、消費者が自由に選択し、自主的に消費し、商品と生産要素が自由に流動し、平等に交換される現代的市場体系の形成を加速し、市場障壁の除去に力を入れ、資源配分の効率と公平性を高めなければならない」
と述べられた。
 これはつまり、政府の役割を小さくし、市場経済を発展させて経済の活性化を図ろうということだ。

 その一環として、企業の経済活動を活性化するための許認可制度改革を行い、「スタンプラリー」とも揶揄された煩雑な行政の認可システムを簡素化した。
 また、能力と意欲のある人が起業し、市場競争に加わるようにするため様々な支援策をとろうとしている。

 ただし習政権は、市場にすべての信頼を置いているわけではない。
 習近平主席は決定の説明を行った際に、中国の社会主義市場経済は一応の発展をみたが、
 「市場秩序が規範化されておらず、不正な手段で経済利益を図る現象が広く見られる」問題などを提起しており、それには政府が介入することを示唆した。

■独占的な大企業には不都合な習政権の「法治経済」路線

 三中全会で打ち出された、この習政権の経済政策の方向性は、香港の市場を独占している富豪に少なからず影響を与えるものであった。
 というのは、市場秩序を整えるという名目で、政府による管理が強化される可能性があるからだ。

 昨年10月に開かれた中国共産党第18期中央委員会第四回全体会議(四中全会)の決議は、「依法治国(法に基づいて国を治める)」を全面に押し出しているが、経済面にも言及している。
 決議は、
 社会主義市場経済は「法治経済」として、市場秩序を整えるための法体系整備の必要性
を説き、
 「マクロコントロール、市場に対する監督管理を法に基づいて強化・改善し、独占に反対し、公正な競争を旨とする市場秩序を守る」
と規定している。

 この決議の規定に従うならば、独占の疑いのある企業家は規制の対象とすることにお墨付きを与えたことになる。
 昨年は『反独占法』を自動車、自動車部品、保険、セメント、眼鏡などいくつかの業種に適用しているが、これは習政権の「依法治国」路線を具現化したものであり、また公平公正を望む民衆の声に後押しされた形で市場競争の活性化を狙っているものと思われる。

 さらに、習主席の進めている反腐敗運動は大物幹部から末端部の幹部までもが取り締まりの対象となり、これまでメスを入れられなかった既得権益層にも容赦ない追及の手が及んでいる。
 これは、政治と結びついて利益を得ている富豪にとっては、背筋の冷たくなるものではないだろうか。

■李氏が感じ取った香港“自由経済”の微妙な変化

 さて、話を香港に戻そう。
李嘉誠ファミリーが香港を「独占」していることは、もはや新しい話題ではない。
 「香港は李嘉誠の家」というような言い方もあるくらい、李氏は香港の富豪のシンボルとなっていた。

 李ファミリーの独占は不動産産業だけに止まらない。
 2006年、李嘉誠氏の息子の李澤楷氏が率いる通信系企業の電訊盈科は香港の固定電話市場を独占した。
 また同氏の率いる和記黄埔の傘下にある「百佳超市(スーパーマーケット)」は、恵康に次ぐ大手スーパーで、李氏による当該スーパーの売却が噂された2013年には香港市場の33%を占めていた。

 香港は経済活動への政府の介入が少なく、自由経済の典型例とまでいわれた。
 ヘリテージ財団の経済自由度指数ランキングでは、21年間トップの座を守り続けている。
 だが、李氏を取り巻く環境は習政権成立、香港の行政長官の政策によって変わってきた。

 2012年の香港特別行政区長官選挙で李氏は、唐英年候補を公然と支持した。
 だが、結果は一般市民出身の梁振英氏が当選し、香港メディアは
 「新行政長官は富豪たちを不安にするだろう、なぜなら梁振英氏は彼らの金儲けの力を制限する可能性があるからだ」
と論評した。
 実際、梁振英氏は早くから施政綱領の中で、
 「香港は大企業の利益に配慮しすぎてきた」
と主張した。

 2012年には、実質的な独占禁止法である『競争法』が採択された。
 この法律の具体的実施時期はまだ明確に示されていないが、2013年5月に香港競争事務委員会がすでに人員の招聘を始めており、準備は着々と整えられている。
 それは法律の正式な施行が近づいたことを意味している。

■セントラル占拠騒動で李氏が背中に感じた「冷たいもの」

 李嘉誠氏は、香港の一行政長官によって自分自身と家族の運命が左右されるとは考えていなかっただろう。
 もちろん李氏は、長官の背後にある中央政府の存在を無視しようにも無視できなかった。
 なぜなら、香港は「一国二制度」によって「高度な自治」を保障されてはいるが、それは「完全な自治」ではないからである。

 中央政府の李氏に対する態度は、香港の「セントラル占拠」運動において明確となった。
 2014年8月17日に始まったこの運動は、一貫して一部の青年学生が叫び続けていたもので、李氏ら富豪の実力者は傍観者の立場を守った。

 運動が膠着状態に陥っていた同年9月23日、習近平氏は董建華氏(初の香港行政長官)や李氏らの香港の商工界訪問団と接見した。
 そこで習氏は、「中央の香港に対する基本方針は変わらないし、変わり得ない」と語り、中央は民主化の要求は聞き入れないとの態度を示した。

 当時、中国共産党は『人民日報』上で、騒ぎを起こしている者たちの行為は法秩序を乱す行為であるという旨の論評を続けて発表し、一部の反対分子を人民の中で孤立させる中国共産党の伝統的闘争方法をとった。
 習指導部は恐らく香港の商工界訪問団にも世論形成の役割を担うことを期待していたのではないだろうか。

 2014年10月15日、李嘉誠氏はセントラルを占拠している人たちに、「すぐに家族のもとに帰りなさい」と呼びかけた。
 李氏の呼びかけの言葉が柔らかすぎることを嫌ったのか、新華社が10月25日に発表した文章では、李氏は学生を家に帰そうとしただけで、「セントラル占拠」についての態度を直接に示していない、と批判が込められていた。

 しかし奇妙なことに、わずか数時間後に、この文章が削除されたのである。
 その日の夜9時に、新華社は再び論評を発表したが、内容は大きく変わっており、李氏や李兆基氏らが「セントラル占拠」に一斉に反対したと述べていた。

 態度を鮮明にしない傍観者であったはずが、いつのまにか運動に反対の立場とされたことで、李氏は背筋に冷たいものを感じたに違いない。

 香港の社会の変化、そして習近平政権成立後の政治的雰囲気の変化は、李氏の撤退を後押しする形となった。
 ただ、習政権についていえば、現在はまだ改革を進めている最中であり、反腐敗運動を通じて既得権益層を排除し、公平な市場競争の基礎を作っていると考えられる。
 反独占法により、公正な競争を促すための市場秩序を整える状況がしばらくは続くだろう。






_