2015年1月8日木曜日

日本の教育は中国とどこが違うのか?:中国人は空に向けて矢を射れば必ず当たると思っている

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 中国人は
 「日本が怖い」
という。
 そのために、過剰に反応し、過剰に恫喝する。
 怖さゆえの保身でもあるという。
 いわゆる
 「制服にみる帰属性」
ということもわかりにくいことであろう。
 日本人は血縁でなく、地縁で動く。
 血縁は消えない。
 地縁はその地を離れれば消える。
 よってなによりもその場への関わりが人間性を決めていく。
 「場の関わり」
が集団行動を決する。
 それを象徴するのが制服でもある。
 「場」は大きさ広さをもつ。
 自分の場と他社の場を浮かび上がらせる。
 「地味」
とは、場の味である。
 それは帰属する集団の規範でもある。
 制服とは「地味」なのである。
 日本人は地味をもてば安心し、それに心をゆだね、自己能力の最大を発揮しやすくなる。
 日本の教育は「地味を育てる」ものである。
 コツコツとこつこつとである。
 クラブ活動などは、その象徴である。
 みんなでこつこつと、がその趣旨である。
 「現実味のない大きな目標」
はクラブ活動にはならない。
 目標もなくこつこつと
がクラブ活動の基本
になる。
 派手は地味の上に成り立つ。
 派手だけでは根っこがない。
 派手だけは地味を分散させてしまう。
 集約力を高めるには地味でないといけない。
 その地味に賞賛を贈る文化が必要である。
 でなければ地味は虐げられた味になってしまう。
 コツコツを尊ぶ文化が地味を育てる。
 『地味とは場の価値』
である。 
 基本は「場」のために、「地味」のためにである。


レコードチャイナ 配信日時:2015年1月8日 7時9分
http://www.recordchina.co.jp/a100129.html

日本の教育は中国の教育とどこが違うのか?
「知っていて行わないのは、知らないことと同じ」―中国紙


●4日、日中商報は、「日本の教育はわれわれの教育とどこが違うのか?」と題する記事を掲載した。写真は日本の小学生。

 2015年1月4日、日中商報は、
 「日本の教育はわれわれの教育とどこが違うのか?」
と題する記事を掲載した。

 日本で生活するある家族に
 「日本の教育と国内の教育の何が違うのか」
と尋ねてみた。
 彼らによると、日本人は幼児教育を重視している。
 女性は子どもを産むと仕事を辞め、子どもが3歳になるまで子育てに専念する。
 子どもに問題が起きると、大きくなってからではそれを直すのが難しいからだ。
 日本人は、男性が仕事に精を出し、女性は子どもが3歳になってから働きに出る、
という形が次の世代の教育のために良いと考えている。

 日本の幼稚園は非常に清潔だ。
 子どもは屋外と屋内で靴を履き換える。屋外の砂ぼこりを室内に持ち込まないためだ。
 日本の学校は制服も重要視している。
 制服はとてもきれいで、デザインもさまざまである。
 彼らになぜ制服を重視するのか
と聞くと、驚きの答えが返ってきた。
 「制服を着るということは、自分自身の身分や所属を忘れることのないようにという意味がある。
 制服を着て悪さをすると、みんな不安に駆られる」
というのだ。

 私は東京のある中学校を見学した。
 日本の中学校では料理や裁縫、空手などさまざまな授業があり、放課後にはそれぞれの興味に合わせたクラブ活動がある。
 学校では特に、武道を重視しており、授業を通じて品格やあきらめない精神を学ぶのだという。
 私は中国でも武術を授業に取り入れるべきだと思う。
 私は子どものころ、力によって世界を変えたいと願っていた。
 しかし、後にそれがかなわないと知った。

 中国人は現実味のない大きな目標を掲げたがる。
 空に向けて矢を射れば必ず当たると思っている
かのように。
 しかし、それは何の意味もない。
 道理を語るのは簡単だが、その裏にある真理を理解し実行できる人こそ偉大なのだ。
 私は中国明代の儒学者・王陽明の
 「知っていることと行うことは同じこと。
 知っていて行わないのは、知らないことと同じである」
という考え方が好きだ。
 私たちは多くの道理を知っているようだが、理解はしていない。
 なぜなら行っていないのだから。



 少々脱線記事を。


レコードチャイナ 配信日時:2015年1月10日 21時40分
http://www.recordchina.co.jp/a100350.html

中国ネットの驚きの回答!
中国でセーラー服が採用されないのは
「鬼畜のような校長が多いから」
「校長が自分を抑えられなくなるから」


●8日、中国の掲示板サイトに、日本の学校はセーラー服が制服なのに、中国の学校はジャージが制服である理由を尋ねるスレッドが立った。これに対して中国のネットユーザーからさまざまなコメントが寄せられた。写真は日本の女子高生。

 2015年1月8日、中国の掲示板サイトに、日本の学校はセーラー服が制服なのに、中国の学校はジャージが制服である理由を尋ねるスレッドが立った。

 スレ主は、
 「日本のセーラー服は清楚でかわいいのに、なんでわが国の女子学生はセーラー服を着てはダメなのか?
 なぜわれわれの学校はダサくて見苦しいジャージを着させるのか?
 学校の古くさいセンスが問題なのか?」
と質問している。

これに対して中国のネットユーザーからさまざまな回答が寄せられた。

「もしも中国でセーラー服を採用したら、校長先生による性的暴行事件が発生する可能性がより高くなる」
「(セーラー服を)着ていなくても、鬼畜のような校長が多いんだ。
 セーラー服だったらもっと大変なことになる」
「校長先生が自分を抑えることができなくなるのを恐れているのでは」

「中国国内の制服は基本的にダサいデザイン。
 いまの校長先生のほとんどが毛沢東の時代に生きた人だからね」
「いいじゃないか。
 70年代なんか、みんな軍服を着て学校に行っていたんだぞ」
「誰が着るかによるんじゃないか?
 日本のようなセーラー服を着れば、みんなきれいになるわけではない」

「衣服の基本的な要件は暖かいことだろ」
「やはり精力を勉強に向けさせるためじゃないか」
「学校に行くのであって、お見合いに行くわけじゃないからだ」



FOCUS-ASIA.COM 1月13日(火)7時18分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150113-00000008-xinhua-cn

中国との大きな違い・・と訪日中国人、
大阪から東京へ向かう道中で目撃したものは―中国ネット

 ある中国ネットユーザーが先日、日本を訪れた際に見た小学生の登校風景に、中国との大きな違いを感じたとするブログ記事を掲載した。
 以下がその内容だ。

 日本旅行の車上で、現地ガイドが
 「日本の小学生は登校時、保護者に送ってもらわない」
という話を聞いていた。
 果たして早朝、大阪から東京へ向かう道中でそのシーンを目撃した。
 十何人かの子どもがたちが同じ制服を着てみんなで歩いており、私たちに向かって手を挙げた。
 送っていく保護者は1人もいなかった(しかも、小学生たちはみんな太っていない)。
 道中、数カ所でこのような光景を目撃した。
 中国の保護者が子どもを学校に送る光景とは大きなコントラストをなしている。

 自分が住む団地の入り口に小学校があるが、月曜日から金曜日までの午前8時は人でいっぱいになる。
 みんな子どもを学校に送ってきたのだ。
 車で送る者、バイクで送る者、自転車で送る者がいるが、それよりも多いのはお年寄りが片手で鞄を持ち、もう一方の手で子供の手をつないでやって来る光景だ。
 午後になると再びこの光景が出現する。
 授業が終わる前から校門前は保護者でいっぱいになり、400メートルほどの道路の両側には子供を迎える車両がいっぱいに停車するのだ。

 自分が小学校に通っていたころは、保護者に送ってもらったことはなく、何人かの仲間と待ち合わせて一緒に歩いて通った。
 しかし、息子の世代から学校に送るようになった。
 幼稚園から小学校卒業までずっとだ。
 孫の世代になった今は送り迎えをするようになった。
 学校から近くても送り迎えは欠かさない。
 これは、わが国で誘拐や児童売買事件が後を絶たないことと十分に関係があるのだろうと思う。
 親は子供から寸分たりとも離れず、学校に送り入れたことを見届けなければ安心できないのだ。

 翻って、日本の小学生が保護者の送迎を受けないという光景は、日本の社会治安が中国よりよいということを説明しているのだろうか。

このブログ記事に対して、中国のネットユーザーからは以下のようなコメントが寄せられた。

「われわれの社会治安は確かに大問題だ」
「自分も小さい頃に親から送迎されなかった。
 今の子どもはいささか寵愛を受けすぎだ」
「おおいにためになった。
 保護者が考えるに値する情報をシェアしてくれてありがとう」

「日本の子どもは自分で学校に行く。
 そうすることで子どもが育ち、小さいころから自立する。
 わが国内とは異なる」
「確かに。
 日本では子どもを送る保護者は少ない。
 多くの母親が仕事をしていないにもかかわらずだ。
 だが、これは大きな環境によるものだ。
 中国は一人っ子の家庭が多いので、子供は一つの世代の代表であり、間違いがあってはならないのだ」
「日本の社会治安はわれわれより良いってことを、まさか疑いはしてないよね?」



朝鮮日報 記事入力 : 2015/02/06 11:17
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/02/06/2015020601355.html

【コラム】悲劇に冷静な日本、ぞっとするほど恐ろしい

相次ぐ大地震や過激派組織による人質殺害という悲劇
それでも「迷惑を掛けて申し訳ない」「政府に感謝」を繰り返す日本人
その冷静さと忍耐はどこから
情熱とエネルギーばかりが先立つ韓国人、共通の敵の前でも争い合う分派性
日本に勝つことはできるのか

 20年前に阪神淡路大震災の取材を行っていた当時、頭を殴られたような衝撃を感じる出来事があった。
 被災地の中心部で70歳代とみられる高齢者夫婦の自宅が崩壊し、妻ががれきの下に埋まった。
 夫が見守る中、緊張感漂う状況で救助作業が行われた。直後に救助隊は妻を発見したが、妻はすでに遺体となっていた。
 現地のテレビ局は救助の様子をリアルタイムで中継していた。

 記者が本当にぞっとしたのは次の瞬間だった。
 救助作業中、ずっとその場に立ちすくんでいた白髪の夫は妻の死を確認すると、救助隊員らに深々と頭を下げ、何度も
 「ありがとうございます。お疲れさまでした」
と大声で叫んでいるようだった。
 夫は一滴も涙を流さず、自らの感情を完璧にコントロールしていた。
 ロボットのようなその様子を見ると、記者は「これが日本人だ」と感じた。
★.阪神淡路大震災では6000人以上の犠牲者が出たが、被災地のどこにも泣き叫ぶ声は聞こえなかった。
★.「静けさゆえに恐ろしい」という感覚。
 これこそ記者が日本の素顔を目の当たりにしたと感じた体験だった。

 過激派組織「イスラム国」により2人の日本人が殺害され、日本国民の間に衝撃が走った。
 しかし日本社会の反応は20年前の東日本大震災当時とほとんど変わらなかった。
 最初の犠牲者となった湯川遥菜さんの父は、息子が斬首され殺害されたとのニュースを聞くと
 「ご迷惑を掛けて申し訳ない」
と述べた。
 また2人目の被害者となった後藤健二さんの母もカメラの前で
 「すみませんでした」
と語った。
 何が申し訳なくて、何が迷惑だったのだろうか。

 これほど残酷な仕打ちを受ける中でも、日本人たちは自らの感情を出そうとはしない。
 本来の民族性が冷たいからというわけではないだろう。
 日本の研究者たちはこれを「迷惑コンプレックス」と説明する。
 「迷惑」とは韓国語で「民弊」などと訳すことができる言葉だ。

 日本人の潜在意識には「他人に迷惑を掛ける行為は恥」と考える遺伝子が受け継がれている。
 「侍の刀による脅し」が日本人をそのようにしたという見方もあれば、教育の効果という見方もある。
 いずれにしても理由は関係ない。
★.重要なことはたとえ悲惨な状況の中でも
 彼らは常に忍耐を発揮する
ということだ。

 イスラム国に家族を殺害された遺族らは、日本政府に対して恨み言の一つでも言いたいはずだ。
 2人の人質が殺害されるという最悪の結果を招いたことについては、安倍政権の失政が大きいからだ。
 2人が人質となったのは昨年10月ごろで、イスラム国との交渉も水面下で行われていたという。
 ところが安倍首相は致命的なミスを犯した。
 中東を歴訪した際、現地で「イスラム国との戦争に2億ドル(約240億円)を拠出する」(原文ママ)と表明し、まさに彼らの面前で挑発したのだ。
 安倍首相の発言が報じられた直後、イスラム国は2人の人質を殺害すると突然表明した。
 無用にイスラム国を刺激する結果を招いた戦術的なミスだった。

 ところが2人の被害者の家族は「安倍政権の責任」とは一言も語らなかった。
 しかも責任を追及しないどころか
 「人質の救出に力を入れてくれた政府に感謝したい」
と機会あるたびに語っていた。
 遺族らのメッセージは徹底して自制されており、またその内容も事前に考えられていた。
 言うべき内容をあらかじめ何かにメモし、練習でもしていたかのようだ。
 そのため「作為的」という見方もあるが、
★.いずれにしてもこれが国の品格というものだ。

 個人に対して沈黙と忍耐を強要する日本の文化を「旧時代的」とする見方もあるだろう。
 責任の所在を明確にしないため、日本そのものが無責任な国になったという指摘もある。
 しかし少なくとも遺族らは、政府が最善を尽くし、自分たちを裏切らないという信頼を持っていたようだ。
★.これは個人が国家と一つになる「公の価値観だ。

 もし韓国が同じような目に遭ったらどうだろうか。
 2004年に貿易会社社員のキム・ソンイルさんがイラクで殺害される事件が発生した。
 ところが当時、世界のメディアが報じたのは遺族が泣き叫ぶ韓国発の記事と写真だった。
 野党や左翼団体などはこの問題を政府攻撃の材料にした。
 国会では与野党が激しく対立し、左派陣営はイラク派兵そのものを問題視してデモ行進まで行った。
 数カ月後、遺族らは国を相手取り損害賠償を求める訴えを起こした。

 国家的な悲劇の中で韓国と日本が示した反応は極と極だった。
 激情的な韓国と冷静な日本、どちらが良いとか悪いとか断言はできないだろう。
 実際に情熱とエネルギーあふれる韓国人は、何かきっかけさえ与えられれば驚くほどの爆発力を発揮してきた。

 その一方で韓国人は共通の敵の前でも互いに争い、何かあればいつも他人のせいにしてきた。
 この分派性は韓国人の致命的な弱点だ。
 これを克服できない限り、日本に追い付くことは永遠にできないだろう。
 20年前も今も日本はやはり恐ろしい国だ。


FOCUS-ASIA.COM 2月25日(水)5時51分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150225-00000005-xinhua-cn

些細なことだが感心した日本人ママの子育て法―中国メディア

 中国の幼児教育専門家が日本人ママの子育てを絶賛し、具体的な方法を中国人ママに紹介している。
 24日付で捜狐網が伝えた。

 4歳の男の子を持つ日本人ママと公園で遊んだ際、男の子が「危ないから登らないで下さい」と注意書きが掲げられた場所を登ろうとした。
 日本人ママは登らないよう注意しただけでなく、男の子に注意書きを声に出して読ませた。
 こうすれば男の子に登ってはいけないことを深く認識させると同時に、字を覚えさせることもできる。
 中国人の親だったら考え付かない方法だ。

 日本人の子育てで素晴らしいと思った点を6項目にまとめた。
(1):子どもが1歳になる前に自分で食べられるようにする
(2):大人より1枚少なく着せる
(3):成績より躾が大事
(4):ゲーム感覚で家事を覚えさせる
(5):小さいうちから節約を習慣にさせる
(6):早いうちから家事を切り盛りさせる
―というものだ。



FOCUS-ASIA.COM 4月21日(火)5時51分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150421-00000003-xinhua-cn

日本は先進的かつ便利なのに
・・日本の幼稚園教育の不可思議なこと―中国メディア

 捜狐母嬰は20日、日本の幼児教育で不思議に感じるとともに、参考にすべき4つの点について紹介する記事を掲載した。

 日本と言えば、先進的かつ便利で繁栄しているというイメージがある。
 しかし、日本の幼稚園は公立にしろ私立にしろ質素で、ちっとも現代化されていない。
 この点を含め、日本の幼稚園教育には以下のような不可思議な点があるのだ。

【その1】幼稚園の設備が質素

 日本の幼稚園には現代化された設備もなければ高価な玩具もない。
 紙箱、木製品、そして大量の本があるのみで、日本の印象からはかけ離れている。
 話によれば、日本の教育者たちは
 「子どもたち自身の潜在能力を引き出すべきで、
 何の思考もない人間にしてはならない」
と考えているとのこと。
 科学技術の進歩を排除して、手元のリソースを用いて創意を発揮させることで、子どもたちのイノベーション精神を養うのだ。

【その2】入園式でも子どもたちが自分でカバンを持つ

 日本の父母は子どもを幼稚園に送る際、荷物を代わりに持ったりしない。
 荷物が大きかろうが多かろうが、みんな子どもに持たせるのだ。
 中国では実際、多くの保護者が重い荷物で子どもが疲れたり、動けなくなったりするのを案じるが、
 日本の保護者は子どもに「自分のことは自分でやる」精神を培ってもらい、責任感を持たせるとともに、苦労を味わってもらうおうとするのである。

【その3】冬でも短パンで抵抗力をつける

 日本の冬はとても寒く、ある地方では雪も降る。
 しかし、幼稚園の子どもたちはどんなに寒くても短パンで通園するのだ。
 もちろん多くの子がこのために風邪を引くのであるが、日本の保護者は長い間こうすることで寒さに耐える能力が鍛えられるとともに、抵抗力を高め、風邪などの病気にかかりにくくなると考える。
 冬の日本に行くと、小学生や女子中高生が短パンやミニスカートを履いて平気でいる様子を見かけるが、それは幼稚園から訓練していたからだったのだ!

【その4】教育は笑いと感謝を学ぶためのもの

 日本の幼稚園には教科書はなく、毎月1冊の絵本が用意されるのみ。
 教育計画に算数やら英語やら仮名やらといった
 カリキュラムはなく、最も重点を置いているのは子どもたちに「笑い」と「感謝」を教えることなのだ。
 また、
 学科系の教育が少ない代わりに美術、音楽、絵本読みといった総合教育による啓発を行っている
 これにより、より大きな成長と進歩が得られるのだという。
 どうりで、日本人はみんな礼儀正しいわけだ。






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